評価:C えっ!これが最後の作品!!? ・・・と思うような出来です。折角、特に二十話を越えた辺りから作品の質を高めてきたのに、最後がコレとは何ともお粗末です。しかもさー坊が最初と次の場面とで明らかに髪型が違うのも、何か後で足りないことに気付いて止むを得ず付け加えたといったような臭いがぷんぷんして、私的には×です。 何処となくコミカルな感じで面白くはあったのですが、「コレで本当に最終回なのか」というのが本音です。「終わりよければ全てよし」の言葉はこのシリーズについては当て嵌まらないかもしれません。 内容は・・・案の定“ゆきおんな”が出てきたり、壁に掛けかけてあった絵が溶けたり・・・と余りにもぶっとび過ぎています。最後に牧が「降雪に反射した自分の姿が、恰も雪女の如く映し出されることがある」云々と弁解をしていますが時既に遅し。言わば科学的に見れる・・・と言うより、そもそも現実味を帯びているかどうかすら怪しいです。感じとしては、リアリティーがないという点で『吸血地獄』に近いと言えるでしょうか(まあ、「リアリティーがない」という点は他の作品についても当てはまるのでしょうがそれを上回るメッセージ性も特になかったので)。 そしてエンディングに至るまで、一度も最終回らしいところなくそのまま終了します。 若しコレが中盤くらいに放送されたのなら、評価としても「C」に止まったのでしょうが、よりによってコレを敢えて最終回に持ってきた点で解せません。内容的にもイマイチだし、敢えてコレを最終話に持ってきたのも尚更だし、評価は「D」を付けざるを得ないな・・・。 ・・・当初はそのように考えていました。でも、一寸したサイトを訪ねてみたところ、このような見方が紹介されていました。 ―――『怪奇大作戦』とは日常生活に潜む人間の見えざる部分(それは「怪奇」とも言えようものだが)を描き出すことに焦点を当てたシリーズである。それは我々が日常何気なく生活する内にも、日々連綿として人間の中に潜み続けるものであり、いつ何時発生するかも分からないものである。そのいつ何時発生するかも分からない人間の“負”とも言える部分に対処する為に、日々劇中のS.R.I.はこれを科学的に解決しようと努めている。したがって、この最終話にも「終わり」と言うものは本来的に存在しないはずである。何故ならば、この作品は日々活動するS.R.I.のほんの一場面を描き出したに過ぎないものであり、決して「終わり」と呼べるようなものはあってはならない筈だからだ。――― なるほど、確かにこのように考えたのならば最終回がこのような終わり方になるのも納得ができます。果たして製作者側にこのような意図があったかどうかは不明ですが、仮にもこうであることを期待しつつ、他にも『怪奇大作戦』だからということもあり、評価は「C」に格上げしとこうかと思います。でも、本来の評価は「D」だったんですよ。 そう言えば、ラストのエンディング,何となく声とテンポが上がっているような気がするのですが、これも一応「最後だ」ということの表れだったでしょうか? ・・・にしても、もうこのメンバーで再び作品を作ることができないなということを考えると、一寸寂しいような気もします。 【完】 (2006年08月04日09時09分06秒記す)
スポンサーサイト
評価:AA 怪奇大作戦の中で“最高傑作”と言っても過言ではない作品です。これ単独でビデオとして出されていることも十分に頷ける内容です。 強いて唯一の難点を述べるとすれば、余りにも今までのシリーズの流れからは外れ過ぎているといったところでしょうか。 それにしても、ラストのミヤコが仏像へと変身してしまうシーン。確かに今までのリアリティーを追求する立場からすれば、率直に言って現実味がなくぶっ飛び過ぎてしまっていると言えるでしょう。したがって素直に考えるならば、牧のミヤコへの余りの思い入れの強さ故にミヤコが仏像に見えてしまったというのが筋です。ただ、今回に限っては、 敢えて元々ミヤコが仏像だったと考えるのもアリではないかと思います。 と言うのも、元々ミヤコと教授が通謀して京都市民からの「京都を譲渡する」との署名を集めたのは「仏像の元の世界」を取り戻すためでした。教授ならいざ知らず、ミヤコに関しては、若し仏像であるとするならば現代の「京都」は、きっと在りし日のそれと比べ住みにくくなったことに違いありません。刹那的な楽しみを求め、伝統なんてものには目もくれなくなってきた京都市民に対する無念さなるものが滲み出てきた場面でもあるでしょう。 「京のミヤコを売りませんかー?」 ―――このとき、ミヤコは何を思っていたのでしょう。。。 当初、科学的にモノを考える牧にとっては「仏像を愛する」ことなどきっと理解不能であったに違いありません。でも、そんな牧でもミヤコの姿を追い求めている内に、京の街の虜になってしまったというオチでしょう。つまり、ラストの場面、あれだけ仏像に惚れるなんてバカバカしいと思っていた牧でしたが、実は気付いてみたら自分自身も仏像に惚れてしまっていたというわけです。こう考えてみると実に味わいのある作品です 或いは、もっとシリアスに 単に牧が庭に置かれている仏像に話しかけているだけだったというパターンも考えられ得ます。ショウレン尼(ミヤコ?)が「スドウミヤコは一生仏像と共に暮らすとお伝えしてくれとのことでした」云々と言っていたことからも、実際スドウミヤコは自殺するなりして既にこの世にはいず、ミヤコが“仏様”としてこの世に姿を現したものと捉えることも可能でしょう。なら、牧がショウレン尼が仏像だと分かった瞬間に逃げ出してしまったその行動も分からなくもないのですが。 ・・・だけど、だとするなら、何故あんなところに仏像が置いてあったんだ??? そして最後に、敢えて京都の美しい部分を映し出さずに、ただただ醜い部分だけを映し貫くエンディング。多少ノイズ的に車や工場の稼働音を入れているところもなかなか好い感じです。 そのエンディングの中にあって、就中象徴として映し出されていたのが「京都タワー」。今でこそ京都市民のシンボル(?)となっている「京都タワー」ですが(修学旅行に行ったときのタクシーの運ちゃん曰く)、建設当時は市民の大反対があったと聞きます。確かにあんなウルトラマンの発進基地だか何だかみたいなモン、京の街には似合いません。中心街なら何処へ行っても目に入ってしまう位無様ですもの。 これまた京都市民曰く、京都タワーに上るようなヤツは京都人じゃねえと。 通天閣や東京タワー,札幌のテレビ塔等がその都市のシンボルとなりつつあるのに対し、京都にあってはそのような高い建物を拵えること自体が似つかわしくない街なのです。 果たして「京都」にとっての戦後24年間,ひいては60年間は前進してきたと言えるのでしょうか?それとも文化的な意味での後退を齎してきたのでしょうか? (2006年08月02日23時09分23秒記す,2007年03月03日13時06分44秒補訂)
評価:A+ 暗い夜道、カップルが線路沿いを歩いていると白いネグリジェの女がやって来て・・・ ブスリ しかも今回は何だか返り血を見て笑っているではないか!これは何だか今まで見てきた殺人犯とは毛色が違うようだ・・・。 いきなり映るは精神病院。そこに町田警部と牧が張り込む。・・・ってか、町田警部に一言物申す! そんなとこにタバコ捨てちゃダメでしょ! そして牧が「マッチ一本火事の元」 ・・・って牧さん、貴方も同罪でしょ!多分『24年目の復讐』で歩きタバコしてましたよね?アレどうしたんですか!アレ!! 「う~む・・・」と町田警部。 ・・・って柱にタバコ押し付けるのもダメでしょ!すっかり痕(?)が残っちゃってるじゃないですか!とても子ども向け番組だとは思えない。・・・と言うより、今からしてみれば男性陣5人とも全員が(尤もさー坊は未成年という設定だから、ソコまではいかないか)タバコ吸っているというのは一寸奇妙・・・と言うより異常に思えます。しかも毎回欠かさず吸ってましたもんね。昔は斯くもタバコを吸うのに夢中、或いは流行っていたのでしょうか? 少しして、女が素知らぬ顔をして病院から出ていきます。それを見て怪訝そうな顔をする町田警部と牧。そしてその後も何もせずにいる内に次々と精神障害者によって人が殺されていきます。 ――― 刑法39条 心神喪失者ノ行為ハ之ヲ罰セス 今回は、自らを一時的に精神障害者に仕立てあげた上で殺人を犯すという手法でした。確かに条文をそのまま適用すれば、殺人行為時には責任能力無しというわけですから「無罪」ということになります。 でも一応、刑法学上はコレ、『原因において自由な行為』理論として解決が可能であるとされています。これの典型的な場合としては、例えば酒を飲んで泥酔すると粗暴になり、人を殺傷することも確実であるという性質が自分にあって、それでも敢えてこれを知りながら人を殺傷する意図で酒を飲んだ場合というのが挙げられます(とっても読み難くてすみません)。先ずこの理論を述べていくに当たって、刑法上何らかの犯罪が成立するためには故意・過失といった主観面と、殺傷行為を行ったという客観面とが、犯罪行為時に同時に存在している場合が通常であるとされています。確かに、この場合も先程と同じく、泥酔状態で殺傷すれば、其の時点では責任能力が無いといのですから、条文通り解決すればこれまた「無罪」となるのが原則です。でもここからがよく考えたもんで、刑法上に言う「責任」とは「最終的な意思決定に対して問われるものである」ということを理由として、最終的な意思決定をしたのは飲酒した時である,したがって殺傷行為を行った以上は「故意」と「行為」が欠けることはないのであるから、この意味では責任を負わせてもよい筈であるという分かったような分からなかったような理屈をこじつけます(詳細を知りたい方は適宜調べて下さい。私の解説はうろ覚えなのでかなり不正確です)。取り敢えず、これが判例法理上確立しているとされています(因みに「判例」は、その判決を下す時々によって無闇に訴訟当事者の取り扱いが異なるということになれば、平等主義に反する結果となりますから、事実上後の判決を下す際の拘束力,影響力があるとされています、多分)。 じゃ~、この話、現実味がなくて意味無いじゃん。って仰られることかもしれません。まあ実際に、当時も斯様な法理が存在していたか如何かはよく分からないのですが、少なくとも作品中町田警部の話を聞いている限りでは「無罪」との判断が下されたというようなことは語られています。・・・実は、こうなってくると話は違ってきます。と言うのも、刑事訴訟法(刑法を実現するための手続きを定めた法のこと)では裁判官によって判決が下された後は、被告人の不利益に変更することが許されないとされているからです。二度、被告人を不安定な地位に置くのは相当ではないという考え方から。・・・となれば、例えば酒を飲んだ後であれば数時間もすれば元の精神状態に戻ることができるでしょうから、実際に裁判が開始されるまでには責任能力は回復していることになります。しかし、こと今回のような場合にあっては如何でしょう?仮にミカワサエコが脳波変調機を操る際に、裁判の経過を見越して圧力を変えていたとすれば・・・見事、刑法に止まらない刑事訴訟法での潜脱を達し得てしまうわけです(以上、飽くまでも「多分」)。 そんな形式的な面はさておき、何れにしても本作品は果たして責任無能力者に刑罰は問い得ないとすることは妥当であると言えるのか?換言すれば、現行法制を支える根本に対する疑問を投げ掛けるものとして、今日においても大きな意味を含んでいたものであると思います。 果たして今回におけるミカワサエコのような場合であっても、責任は問い得ない、とすることが妥当なのだろうか?引いては、そのミカワサエコに犯罪を思いつかせる原因ともなった現行の責任無能力者に一切の責任を問い得ないとする法制が妥当なのか?幾ら法律上の理論を穿り振り回そうとも、若し自分が遺族の立場に立ったなら「死刑にしてほしい」というのが切実な思いだろうと思います。言わば遺族は今の制度上では正に「泣き寝入り」するしか取るべき方法がないのです。 そして、肝心の責任無能力者に対する処遇についてはどうか?今でこそ従来のあり方を多少見直す動きが出ているとはいえ、実際の措置入院では、費用はかかるし、常に飽和状態だし・・・で、入院しても直ぐに市中に繰り出されてしまうということについては変わりありません。作品中でも「精神異常者が野放しにされている」との的矢所長の指摘がありますが、「野放し」という表現が適切であったかは別としても、少なくともその言わんとしていること自体は的を射ており、しかも今の世でも依然として改善されていない問題なのです。 因みに、今回のミカワサエコは少なくとも3人の行った殺人行為に教唆または幇助していると考えられますから、まず死刑は免れなかったというのが本来でしょう。でも、そのミカワサエコでさえも現行法によれば罰せられない、ということにはなってしまうのですが。。。 (2006年07月26日01時42分14秒記す,2006年12月01日02時09分45秒補訂)
評価:AA- 一言で、テレビにしてこれほどの映画テイストは反則です。 兎に角一旦通して見てみたのですが、一回目は人物関係とか把握できずに過ぎていったこともあり、あまり良く分かりませんでした。 んでもって2,3回繰り返して見てみることにしたのですが(子ども向け番組で此処までするか!といった感じですが)、 実に味わいがありますね。本当に大の大人(?)が大の声を挙げて言うべきことではありませんが。「市井のオヤジ」と「おとっつあん」の辺りからこんがらがってしまいました(如何考えても『市井商会』の「市井」は「シセイ」と読むでしょうが!)。 話は至って単純・・・とまでは言えませんが、簡単に言えばゴーストライターならぬゴーストアーティスト(?)、換言すれば陶芸代作家に纏わる葛藤を描いた作品です。 立派な壺を次々と世に作出しているにも関わらず、名を残さぬ内に消えていく親父。その数々の作品は唐代のものと見紛う程の精巧さであるのに、誰も親父の存在に気付く気配すらない。そしてそれを悲しみ、本家たる市井商会を怨んだが故の反抗。それどころか、単に「唐代に作られた立派な作品」という理由だけで、選りによって真に芸術を理解できないでいる成金(金持ち)達に亙っていくことが蔓延っている芸術界に対する不満。そんなレベルの低い人達がいるから親父の作品が未だ見破られないでいるんだ――― 一人の男の中で様々な思いが交錯している状況を描くことによって、世に潜む歪みみたいなものを見事に曝け出しています。今まで実際にも、こと芸術界にあっては似たような状況(「縁の下の力持ち」)が少なからず起こっていたのではないでしょうか? そういった所謂犯行の動機,背景の深さといった内容も然ることながら、その他の特撮や“間”の置き方等も目を瞠る点が多々あります。ゆっくりと、しかしはっきりと発せられる京都弁はその美しさ(笑)を存分に出し切っていたろうと思います。加えて自分としては一寸煩わしいかもとは思ったものの、病気持ちのトーゾーが頻りに咳いている様子も(あんなうまいタイミングで咳くものか!)なかなか味が出ていて良かったのではないでしょうか。病気持ちであったことが自分の死に繋がったという点においては、何か『荒野の決闘』のドクを彷彿とさせられるところがあります。 あ,そうそう、牧さんが机に足をぶつけて立ち上がったシーン。あそこが私のチョッとしたお気に入りです。張り詰めた空気の中、あのような日常何処でも起こり得そうなことを敢えて取り入れることによって、場を和ませたことは特筆に値します(まあ本来、特に筆する程のことではないのでしょうが)。 軈て、何やかやがあって、トーゾ―は古寺(妙顕寺)に火を放って自殺します(早すぎた構成要件の実現?)。「この寺は本モンか偽モンか・・・」と言いながら放火したのも、これまた『金閣寺』を思い起こさせられるかのような感じです。尤も、トーゾーの場合は寺の美しさに魅せられたというよりも、古けりゃ何でも良いというような風潮が流れている芸術界に対するある種の反発を示したものだったように思われますが・・・。 そして息子の死後、旧日本軍施設で犯行に使われたリュート(?)物質を目の当たりにしたオヤジは何を思ったか、一目散にその場を離れ「チクショー!」と叫びながら自らが拵えた壺を次々と壊し捲っていきます。それは息子を喪ったことへのショックからだったのか?犯行がバレて市井商会に申し訳ないという気持ちからか?これ以上自分の作品を世に送り出すことができないからか?はたまた今まで自分の名が埋もれてきたことに対する鬱積からか?―――考えれば考えるほど味のある締め括り方です。最後に、終わりのエンディング曲が流れる場面,別にオヤジの頭の中を再現したものじゃーないでしょうが、今回はやけに落ち着いています。此処らへんにも、何だか今まで通りの単なるテレビ作品ではなく、それとはまた別の映画的な作品であったことが見て取れるような気がします。 なお、今回は一寸作品が日常やテレビから乖離し過ぎてしまった感があるので、評価は分かれるでしょうが「-」を付けさせてもらいます。 (2006年07月17日05時35分47秒記す)
評価:A+ 本作品は兎角、車を乗り回すシーンが多く、次作への「つなぎ」のような感も否めなくはありません。まあそれが車に乗る者の心境を反映しているということならば意味はあるのですが。そして、その代わりとあってか今回はその節々に興味深い問い掛けが結構多くなされています。 それにしても排ガスに劇物を入れたとはなかなか考えましたね。しかも犯人が分からない儘という余韻を残した終わり方も意味深な感じがして、考えさせられるところがあります。 途中、交通事故が起き犠牲者が出てしまいますが、そんな不遇にも「彼女は運が悪かったんだよ」としか答えられない牧。そんな簡単な言葉で済ませたくはないという思いはありつつも、そうとしか説明できない実際。それが、1分も経たない内に1件発生しているという現状に鑑みるならば、如何に交通事故が身近に起こっているのかが良く分かります。しかも残念なことに、そう分かっていて、確かに言い古されたフレーズではあっても、止めようもなく日々必ず何処かで発生してしまう。 最後に「誰に頼まれたんだ?」との問いに、整備員が「クルマ・・・」と言いながら息を引き取る場面も、そういった“殺人”が日常茶飯事に引き起こされる車社会に向けた警鐘、引いては皮肉を表していたのではないでしょうか?交通事故は大概運転者の過失によって引き起こされます。何をそんな当たり前のことを、と仰られるでしょうが、これも被害者又はその遺族からしてみれば、人災でありながらも完全な怒りのぶつけようがないことになるのもまた事実です。考えようによっては、事故を起こした張本人である加害者からしても、特に自分の意とせずに発生してしまうことからも、生涯に亙って後を引く可能性があることを思えば、また同じく被害者であると言い得るかもしれません。では、事故を引き起こした本当の犯人は誰なのか――― やはり、このような問いへの返答に窮した挙句、最終的に答えられるものとして「クルマ」としか挙げられない場合もあるのは事実ではないでしょうか。 それともう一つ、解釈として考えられることには「クルマ」が通常の人格とは異なる人格を生み出すといったことでしょうか?感じとしては『こち亀』の本田みたいな。つまり、車に乗るとスピード感やストレス等様々な要因が重なり合って、凶暴的な性格を生み出すこともあり得るということです。急にそれは、縦令それまでどんな善人であった人であってもいつ何時“殺人”犯へと変貌させてしまうか分からない危険性を孕むものなのです。 (2006年07月10日22時21分37秒記す)
| HOME |
次ページ≫
|