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東京奇譚集 

村上春樹 著、2007(平成19)年12月1日、新潮文庫

 徒労に終わった大学院受験も一区切りついた日、 「小説を読みたいな~」と思ったいたところ、とある友人Fが「村上春樹なんかいいんじゃない?」と勧めてくれました。実は、今回のこの『東京奇譚集』についても、その友人Fが勧めてくれたものです(私は何も考えず即買いしましたが)。そんな次第(どんな次第だよ!)で村上春樹の世界が私の目に飛び込んでくることとなったのです。どうでもいいのですが、先日どこかで『東大生協書籍売上順位』で第一位の有斐閣六法に続いて第二位にランクインされてました。「東大だから」というわけではないのですが、それだけ村上ファンが多いのだなということを教えてくれます。
 思えば以前、村上春樹の小説を読んだことがあったろうか・・・。限りなく透明に近い何とかとか『あの金で何が買えたか』とか・・・ごめんなさい。村上「龍」でしたね。いつも間違えるんです。一応、村上「春樹」で私の本棚を覗いてみたところ『風の歌を聴け』という本が置いてあります。たぶん大昔に読んだんでしょう。でも、全然覚えてません。手にとってパラパラとめくってみましたが、全く思い出せません。アノ頃は小説はおろか本を読むこと自体億劫だったので、取りあえず何か薄い本でも読めればいいや・・・という気持ちで読んだんだと思います。
 そんなわけで実質的には村上「春樹」に触れるのには今回が初めてです。というか、小説読むの自体、私にとっては新たな試みです。以下、拙い感想録を書いていきます。もちろん、メモみたいに走り書きになったり、殴り書きをしたり、箇条書きをしたり・・・とよくわからない文章形式になることもあるかもしれませんが、これを通じて少しでも「本を読む姿勢」が身に付けばと思っています。ちなみに、私の小中学生の頃は『課題読書』以外の本を通しで読んだ記憶がありません。なので、読解力のなさについてはご承知のほどを・・・。。


 『東京奇譚集』
 一瞬、「奇譚」って何だ?と思いましたが、広辞苑によると「世にも珍しく面白い物語。言い伝え。」とあります。「なるほど、東京の奇妙で面白い話か~」という気分で読み進めていきます。

 【偶然の旅人】
 初っ端から「僕=村上はこの文章の筆者である。」と始まっています。そして「どうして僕がここに顔を出したかというと・・・」という語り口で、物語を始める前に筆者自身の「不思議な出来事」について語られていきます。今まで読んできた本と比べれば「何ともケッタイな始め方だな~」と思いましたが、これが村上春樹の持ち味なのでしょうか?なんてことを考えつつ読み進めていきました。
 話の内容は、簡単にいえば「偶然」についての話だと思います。だけど、その「偶然」も単なる「偶然」ではなくして、本文中に出てくる「彼」(ピアノの調律師)にとって「本来の自分に戻る」ことができるような「偶然」・・・すなわち、恰も初めから彼にそうなるように仕向けられた運命(その意味では「必然」とも捉えられる)とも言えるような、何とも奇妙な「偶然」です。
 この本を友人Fから勧められたと同時に、もう一つ『偶然のチカラ』(植島啓司著、2007年10月22日、集英社新書)という本についても勧められました。そのときは私にバイトの金が入ったときでもあり、財布の中がホクホクとした状態だったので、何の気もなしに「とにかく本が読めればいい」との一心で2冊購入しました。その文中、興味深い指摘がありました。
 ―――この世の出来事がすべて孤立してバラバラに起こっている(=偶然)と考えるか、どれも相互にに緩やかに結びついて存在していると考える(=必然)か、どちらをとるかが問題なのである。―――
 正直、『偶然のチカラ』の内容については、私が固陋、或いは読解力がないからかで一部理解し難い部分があったのですが(当初は「」という言葉が出てきた時点で毛嫌いしましたが)、少なくとも「世の中の出来事を何らかの必然の流れにある」と考える視点は大切であるように思います。『偶然のチカラ』では「世の中、どんな出来事も偶発的なものと捉える傾向にある」という前提で話が進められていたのですが、正直、私自身にとっては物事の流れについて「何か原因はあるんだろうな」程度には考えていたものの、ここまで突っ込んで考えたことはありません(汗;。いずれにせよ、「偶然にも意味づけができるもんなんだな」と。
 話を戻しまして、「彼」にとっては二つの大きな転換期があったように思います。それは(1)ピアニストになることへの断念,(2)火曜日、彼女とのカフェでの出会い,の二つです。メインは(2)にあるように思うのですが、一応、彼の「生き様」という点では(1)を含めてもいいのだと思います。そして、この二つに関係することは、何れも「偶然」で繋がっているのではないかという点です。(1)では「偶然」についての明確な描写はありませんが、おそらく彼が「大学に入ってしばらくして」いくうちに、何らかの「二流のピアニストになるよりは、一流の調律師になった方が僕自身のため」と気付く契機があったのでしょう。もしかしたら彼自身にしてみれば物の成り行きだったのかもしれませんが、そのような考えが生じる前と後とではやはり「偶然」といえるようなものがあると思います。(2)については、彼女のほくろの位置・乳癌持ちが「偶然」にも姉のそれと一致しています。そして、これら(1)(2)を通じて「自分の本来の姿」に気付いていっているのです。
 村上春樹自身は「個人が特定されることを避けるために、いくつかの事実に変更を加えた。しかしそれ以外は、彼が物語ったままになっている。」と飽くまでも頑なに現実の話であるとしていますが、率直なところ「ホンマかいな~、やっぱ小説家が書いたからじゃない」という感想を抱いてしまいます(笑)。でも、これらの経験を踏まえた上での彼(ピアノの調律師)の「かたちのあるものと、かたちのないものと、どちらかを選ばなくちゃならないとしたら、かたちのないものを選べ。それが僕のルールです。」という言は、妙に説得力を持ってきます。彼自身にしてみれば正に「偶然のチカラ」による恩恵を被っているのです。そして、村上春樹自身も「少なからざる数の不可思議な現象が、僕のささやかな人生のところどころに彩りを添える」として・・・。
 いいな~、自分もこんな神秘的な体験を通じて「偶然のチカラ」を被りたいものだ。いや、待てよ・・・。よくよく考えればFが教えてくれた『東京奇譚集』と『偶然のチカラ』との共通性・・・これこそ自分の読書姿勢に一つの道標を示してくれるものだったんではないだろうか!?

 ※以下、追加形式で他の『東京奇譚集』に載せられた話の偶感を掲載していくつもりです。もしかしたら書けないかもしれませんし、書けたとしてもここまで長く書けないと思います(汗;。そんなつもりで、ゆったりと「偶感的に」読書生活をスタートしていければと考えています。
 
 (2007年12月12日11時36分18秒記す)

 【ハナレイ・ベイ】
 一言で、この話で印象付けられたことは「なるがまま」ということです。このことは先ほど紹介したように同じく『偶然のチカラ』でも強調されています。正直、私自身、なかなかこの意味を実感することができず苦しんでいる節があります(実感している人からすれば、正に「なんと憐れに・・・」という状況です)。おそらくこの『偶然のチカラ』、村上春樹と共通する部分がある、という点でFが勧めてくれたものなのでしょう。いずれにせよ、バックにある考えが「」であるのかもしれません。つまり、全ての物事は因果の流れの中にある。しかし、中にはどう働いても変えられないものがあり、それについてアレコレと思索を巡らしてもムダである。それどころか有害ですらある・・・という風に。その結果、「公平であれ不公平であれ、資格みたいなものがあるにせよないにせよ、あるがままに」受け入れよ、ということになるのです。このことは(1)日系の警官が「息子さんは大義や怒りや憎しみなんかとは無縁に、自然の循環の中に戻っていた」と言っていたことや、(2)黒髪が口にした「でもさ……、うーん、まあ、鮫にもいろいろあるからさ」との言葉、(3)ずんぐりの「(サーフィンは)たまに週末にやってますが、就職のこともありますし、そろそろ足を洗わないと」「あいつ(長身)は超気楽なんですよ。就職の心配ありません。親は赤坂でけっこうでかい洋菓子屋をやってんです。うちを継いだらBMW買ってくれるんだって。いいっすよね。俺の場合、そうはいきませんから」という言葉に象徴されているように思います。
 いずれにせよ、最後サチが「なすがまま」に過ごしていったように、真にその境地に達すれば片脚の日本人のサーファーが、サーファー二人組(ずんぐり・長身)の前に現れたとしても、至極「自然」なものとして捉えることが可能だったのでしょう。我々の社会は、あまりにもこういった心霊現象(?)に対して「意味づけ」することを忘れてしまっているのです。
 でも、残念ながら、そのような価値観(日本社会の)に浸ってしまった私自身にとっては、どうしてもそのような目から物事を見ることができません。その意味では村上作品を真に理解するのは難しいのではないか、と。サチが途中、「たぶんこういうのが血筋なんだろう」とボヤいてた場面があるように、こう思えるか思えないかも結局は「血筋」によるところが大きいのではないか、とさえ思ってしまうのです。かつて『ケ・セラ・セラ(Que Sera Sera)』という歌がありましたが、その意味が実感できなかったのもこういう側面に起因しているのかもしれません。
 では、何故、日本社会・日本人が「あるがまま」の価値観を受け入れられないのか、それは個人が自由奔放に生きられない社会,すなわちある狭い「世間」による「個人への呪縛」があまりにも強かったせいではないでしょうか(「世間」が今後、徐々になくなっていく,薄くなっていくにしても)。つまり、科学的・合理的思考から外れた個人を異端視する傾向・狭い社会(世間)が欧米社会に比べて強かったのではないでしょうか。阿部謹也先生の言葉を借りると(汗;(←すみません、完全に大学院の受験勉強、大学の授業で毒されてしまっています。最後のひと段落はくれぐれも気にしないこと。)

 (2007年12月12日13時10分13秒追記)

 【どこであれそれが見つかりそうな場所で】
 一言で「謎が多い」文章です。特に終わりの箇所で触れられた「私」の捜し求めているものとは何なのかが気になって仕方ありません。「ドアだか、雨傘だか、ドーナッツだか、象さんだかのかたちをしたもの」・・・。どれをとってみても共通性があるように思えません。考えれば考えるほど神経衰弱に陥っていきそうです。
 ところで、私が失踪した「夫」を調査するため階段で出会った人々がいました。その中で、「私」が火曜日に出会った「一人の老人」の言葉が気にかかります。「雑事が発生するおかげで、けっこう滑らかに日々の時間が過ぎていきます。身体も動かしますし、余計なことも考えずにすみますし」「パスカルの説とは相反するようですが、私たちはあるときにはむしろ自らを生きさせないことを目的として考えているのかもしれません。ぼんやりする――というのは、そういう反作用を無意識的にならしている、ということなのかもしれません」。つまり、この老人は「考える」ことは害である、と考えているらしいのです。
 そして「人間の思考」は水の機能に似ており、ある場合には「人間の思考」が最短距離を作り出すことさえある、としています。この点、何だか人間の思考回路から外れた「閃き(≒直感)」が存在することを示唆しているようにも思えます。加えて「ときとして私たちは言葉は必要としません」「しかしその一方で、言葉は言うまでもなく常に私たちの介在を必要としております」とも述べており、「言葉だけでは通じないもの(≒直感)」の存在を示唆しています。つまり、従来、資本主義社会が当たり前のものとしてきた「合理的思考」過程だけでは捉えきれない、新たな「直感が支配する領域」について筆者は仄めかしているように感じるのです(異端説であるのは重々承知の上で)。そう捉えれば、階段で金曜日に出会った小さな女の子との意味不明な会話(小さな女の子は本当にこれを理解しているようで怖い)も分かるような気がしますし、「私」が探し求めているのがドアだか、雨傘だか、ドーナッツだか、象さんだかのかたちであっても良いような気がします。「夫」が一般的合理的な思考から外れた行動をとったのも「現実の世界」とは別に存在する「直感」が起こしたものだ、と考えればそれなりに説明できるようにも見えます。
 そんなこんなで一つ思うのは、本文の面白みは①「私」が探し求めていたもの、②「夫」が失踪した原因、等について色々と「考え」させることによって、「考える」ことによる弊害を我々が体感させることに求められるのではないか、ということです。このことは、題が「どこ」「あれ」「それ」と非常に曖昧であることにも象徴的です。そして、この話を読んだ直後にやって来る「ぼんやりとする」反作用は恰も老人が話していたことを我々に呼び起こしているのではないか、とさえ思うのです。こう考えるとちょっと面白くありません?(笑)

 (2007年12月22日17時46分39秒追記)

 【日々移動する腎臓のかたちをした石】
 これまた不思議な話です。そして、私の読解力の無さを尽々と感じさせられます;本文で気になった部分はというと、やはり淳平の父親が言い放った「男が一生に出会う中で、本当に意味を持つ女は三人しかいない。それより多くもないし、少なくもない」という部分です。その内の一人目は淳平の中で「本当に意味を持つ」と言い切られているので、まずこの女性はその内の一人としてカウントしても良いでしょう。残るは二人です。
 そして、キリエの登場です。果たして、彼女は淳平にとって“二人目の女”だったのか?まあ「そうでない」とすると、この話の意味自体がなくなってしまうでしょうので「そうである」とします。では、キリエは淳平にとってどういった点で“二人目の女”だったと言えるのか?後半部分、淳平がタクシーに乗っている際にキリエらしき(?)女性の声を聞きます。一応、この点でも「敢えて記述した」ことを考えれば、「キリエだ」としても差し支えないでしょう(色々考えられる可能性を限定し過ぎて、すんません;)。そして、このキリエさん、どうやら「高い建物と建物とのあいだにロープを張って、その上を歩いて渡る」ことが「天職」であるらしく、それは「(人間である男の)誰かと日常的に深い関係を結ぶということが、私にはできない」ものらしいのです。つまり、天職を自分にとって唯一愛することができる対象と考えているのです。このことは「職業というのは本来、愛の行為であるべきなんです」とのキリエの言にも表れています。
 再度戻ります。では、そんなキリエが何故、淳平にとっての“第二の女”足りえたのか?ここからは私のぶっ飛びすぎた考えであることをご承知下さい。まず第一に現れた女は、本文中にもあるとおり「親友と結婚してしまった女性」です。そして、第二の女は話の筋から「キリエ」でしょう。では、第三の女は…?この点、ちょっと反則かとも思うのですが、「大編小説を書くこと=天職」だったのではないでしょうか?キリエも「天職」を愛の対象としていた…ことを考えれば、何も「」が人間である必要はないのです(センター試験なら先ず真っ先に消去される肢だな;)。勝手な推測なのですが、この①一般女性→②キリエ→③天職という流れは、①人間→②啓示者→③神へと昇華していく過程に思えてならないのです。だとすれば、とっても巧妙だと思いません?
 キリエと別れた後、「淳平はよく彼女のその言葉を思い出した」とあることに、「一度その集中の中に入ってしまえば、そこには恐怖はありません。ただ私と風があるだけです」というのがあります。この「集中的に多くの短編小説を書いた」頃から淳平は天職へと目覚め始め、キリエと同じようにそこへ突き進む恐怖心も消え失せていったのではないでしょうか?「天職」が第三の女だとすれば「それは常に最初であり、常に最終でなくてはならないのだ」と言っている意味も分かるような気がします。つまり、『日々移動する腎臓のかたちをした石』が淳平にとっての「最初の」大編小説になったわけです。そして、彼(淳平)の小説のタイトルにある「腎臓石」が最後にいなくなってしまったのも、腎臓石が彼女(女医)の全うすべき職分について啓示する役割を終えた…からなのではないでしょうか?(超異端説)
 はい、ごめんなさい。普通に理解すれば(私が思う“普通”です)キリエが教えてくれたことはそこにあるものを「そっくり受容しようという気持ち」であり、そこにあるものを変に疑ったりすべきではない、ということだったんだと思います。だからこそ、彼はそこにあるものをありのまま受け容れていく気持ちが整ったのでしょう。そして同じく小説中の女医が腎臓石が二度と帰ってこないことを悟ったのも、彼女がありのままに受け容れる姿勢を整えたからだ、と言えるでしょう(一応、二ブロック前の「腎臓石が所定の位置に収まっていた」ということも、この時点では女医がありのままに受け容れる姿勢が整っていたなからだ、と言えるでしょう)。

 (2007年12月23日22時29分30秒追記)
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[2007/12/12 11:36] ブックシェルフ | TB(0) | CM(2)