とうとう500人目を突破してしまいました。
400人目を突破してから若干伸び率が減少してしまったようですが、それでもあのお粗末な記事の内容からすれば、これだけの人に来てもらったのは大変喜ばしいことです。
さて、本ブログ開設以来4ヶ月余りに亙って・・・
・・・面倒臭いのでまた別の機会にでもしましょう。
(2006年08月06日18時04分59秒、来訪者503人)
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評価:C えっ!これが最後の作品!!? ・・・と思うような出来です。折角、特に二十話を越えた辺りから作品の質を高めてきたのに、最後がコレとは何ともお粗末です。しかもさー坊が最初と次の場面とで明らかに髪型が違うのも、何か後で足りないことに気付いて止むを得ず付け加えたといったような臭いがぷんぷんして、私的には×です。
何処となくコミカルな感じで面白くはあったのですが、「コレで本当に最終回なのか」というのが本音です。「終わりよければ全てよし」の言葉はこのシリーズについては当て嵌まらないかもしれません。
内容は・・・案の定“ゆきおんな”が出てきたり、壁に掛けかけてあった絵が溶けたり・・・と余りにもぶっとび過ぎています。最後に牧が「降雪に反射した自分の姿が、恰も雪女の如く映し出されることがある」云々と弁解をしていますが時既に遅し。言わば科学的に見れる・・・と言うより、そもそも現実味を帯びているかどうかすら怪しいです。感じとしては、リアリティーがないという点で『吸血地獄』に近いと言えるでしょうか(まあ、「リアリティーがない」という点は他の作品についても当てはまるのでしょうがそれを上回るメッセージ性も特になかったので)。
そしてエンディングに至るまで、一度も最終回らしいところなくそのまま終了します。
若しコレが中盤くらいに放送されたのなら、評価としても「C」に止まったのでしょうが、よりによってコレを敢えて最終回に持ってきた点で解せません。内容的にもイマイチだし、敢えてコレを最終話に持ってきたのも尚更だし、評価は「D」を付けざるを得ないな・・・。
・・・当初はそのように考えていました。でも、一寸したサイトを訪ねてみたところ、このような見方が紹介されていました。
―――『怪奇大作戦』とは日常生活に潜む人間の見えざる部分(それは「怪奇」とも言えようものだが)を描き出すことに焦点を当てたシリーズである。それは我々が日常何気なく生活する内にも、日々連綿として人間の中に潜み続けるものであり、いつ何時発生するかも分からないものである。そのいつ何時発生するかも分からない人間の“負”とも言える部分に対処する為に、日々劇中のS.R.I.はこれを科学的に解決しようと努めている。したがって、この最終話にも「終わり」と言うものは本来的に存在しないはずである。何故ならば、この作品は日々活動するS.R.I.のほんの一場面を描き出したに過ぎないものであり、決して「終わり」と呼べるようなものはあってはならない筈だからだ。―――
なるほど、確かにこのように考えたのならば最終回がこのような終わり方になるのも納得ができます。果たして製作者側にこのような意図があったかどうかは不明ですが、仮にもこうであることを期待しつつ、他にも『怪奇大作戦』だからということもあり、評価は「C」に格上げしとこうかと思います。でも、本来の評価は「D」だったんですよ。
そう言えば、ラストのエンディング,何となく声とテンポが上がっているような気がするのですが、これも一応「最後だ」ということの表れだったでしょうか?
・・・にしても、もうこのメンバーで再び作品を作ることができないなということを考えると、一寸寂しいような気もします。
【完】
(2006年08月04日09時09分06秒記す)
どうやら日弁連のホームページに法学既習者試験の解答が発表されたようです。
どれどれ、怖いけど見てみるか・・・・・・( . . 〆
うむ。
どれくらい良いのかさっぱり分かりません。少なくとも去年の過去問解いたよりかは悲惨ではないということぐらいです。
尤も、平均点も発表されていませんから、大学院に参考資料として提出していいものかすら分かりません。今年の適性の例もありますし・・・。
まあ少なくとも期待値よかは良いみたい・・・じゃないな。商法が。んで以って、一番良かったのが何故か行政法。しかもこれだけ群を抜いてます。本当に行政書士とか公務員試験とか受けてやろかと思うぐらいです。
結局、書類として提出もできない位ですから
自己満だったというわけです。
(2006年08月02日23時39分16秒記す)
評価:AA 怪奇大作戦の中で“最高傑作”と言っても過言ではない作品です。これ単独でビデオとして出されていることも十分に頷ける内容です。
強いて唯一の難点を述べるとすれば、余りにも今までのシリーズの流れからは外れ過ぎているといったところでしょうか。
それにしても、ラストのミヤコが仏像へと変身してしまうシーン。確かに今までのリアリティーを追求する立場からすれば、率直に言って現実味がなくぶっ飛び過ぎてしまっていると言えるでしょう。したがって素直に考えるならば、牧のミヤコへの余りの思い入れの強さ故にミヤコが仏像に見えてしまったというのが筋です。ただ、今回に限っては、
敢えて元々ミヤコが仏像だったと考えるのもアリではないかと思います。
と言うのも、元々ミヤコと教授が通謀して京都市民からの「京都を譲渡する」との署名を集めたのは「仏像の元の世界」を取り戻すためでした。教授ならいざ知らず、ミヤコに関しては、若し仏像であるとするならば現代の「京都」は、きっと在りし日のそれと比べ住みにくくなったことに違いありません。刹那的な楽しみを求め、伝統なんてものには目もくれなくなってきた京都市民に対する無念さなるものが滲み出てきた場面でもあるでしょう。
「京のミヤコを売りませんかー?」
―――このとき、ミヤコは何を思っていたのでしょう。。。
当初、科学的にモノを考える牧にとっては「仏像を愛する」ことなどきっと理解不能であったに違いありません。でも、そんな牧でもミヤコの姿を追い求めている内に、京の街の虜になってしまったというオチでしょう。つまり、ラストの場面、あれだけ仏像に惚れるなんてバカバカしいと思っていた牧でしたが、実は気付いてみたら自分自身も仏像に惚れてしまっていたというわけです。こう考えてみると実に味わいのある作品です
或いは、もっとシリアスに
単に牧が庭に置かれている仏像に話しかけているだけだったというパターンも考えられ得ます。ショウレン尼(ミヤコ?)が「スドウミヤコは一生仏像と共に暮らすとお伝えしてくれとのことでした」云々と言っていたことからも、実際スドウミヤコは自殺するなりして既にこの世にはいず、ミヤコが“仏様”としてこの世に姿を現したものと捉えることも可能でしょう。なら、牧がショウレン尼が仏像だと分かった瞬間に逃げ出してしまったその行動も分からなくもないのですが。
・・・だけど、だとするなら、何故あんなところに仏像が置いてあったんだ???
そして最後に、敢えて京都の美しい部分を映し出さずに、ただただ醜い部分だけを映し貫くエンディング。多少ノイズ的に車や工場の稼働音を入れているところもなかなか好い感じです。
そのエンディングの中にあって、就中象徴として映し出されていたのが「京都タワー」。今でこそ京都市民のシンボル(?)となっている「京都タワー」ですが(修学旅行に行ったときのタクシーの運ちゃん曰く)、建設当時は市民の大反対があったと聞きます。確かにあんなウルトラマンの発進基地だか何だかみたいなモン、京の街には似合いません。中心街なら何処へ行っても目に入ってしまう位無様ですもの。
これまた京都市民曰く、京都タワーに上るようなヤツは京都人じゃねえと。
通天閣や東京タワー,札幌のテレビ塔等がその都市のシンボルとなりつつあるのに対し、京都にあってはそのような高い建物を拵えること自体が似つかわしくない街なのです。
果たして「京都」にとっての戦後24年間,ひいては60年間は前進してきたと言えるのでしょうか?それとも文化的な意味での後退を齎してきたのでしょうか?
(2006年08月02日23時09分23秒記す,2007年03月03日13時06分44秒補訂)
近頃涼しくて大変過ごしやすいですね。そういえば、梅雨はもう明けたのでしょうか。
本当に、毎日がコレくらいだと過ごしやすくていいんですがね。
・・・・・・でも、屋内は冷房つけて下さい。
最近、文章構成力がかなり衰えてきたので、コレくらいで済まさせて頂きます。・・・と言うより、余りに単調な生活なので話題が提供できないだけですが。「暑い」だの「疲れた」だの直近の日記を見ていてもよく分かるところです。
―――これが“末期”というヤツか?――――――