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第二十話 殺人回路 

評価:B+

 最近なかなか書いていませんでしたので、此処らへんで纏めてと。何だかこのシリーズも後の方になるに連れ、なかなか見応えのある作品が多くなってきており、それなりに満足しております。
 
 正直、記憶が一寸遠のいているのですが、本作品はコンピュータ化する社会への一つの暗示が施されていたように覚えています。そして、それは一言で言えば「人の無機質化」だったのではないでしょうか。確かに、本作品を見てみれば分かります通り、製作されたのは今から凡そ40年前であり、ところどころ幾ら「コンピューター」とは雖も、現代と比べればその精緻度はかなり未熟であることが見て取れます。途中、プログラミングの四角や三角の図に戸惑いを隠しきれてなかったように、高度経済成長期の真っ只中にあった当時でも、かなり四苦八苦して修得されていったモノであったのだことが窺えます。
 尤も、これほどまでに齷齪と努力して開発してきたコンピューターであっても、果たして人間の生活,突き詰めれば人間そのものを豊かにしてきたのかと問われれば、疑問符が付くところも否定し切れないでしょう。
 確かに機械(コンピューター)は忘れる事もなく、裏切りもせず非常に従順です。正に「万能」なモノです。作品中でもノムラが「コンピューターをボーイフレンドにできたら良いのに」と言っていたように、実際に人と接するよりも遥かに自分の理想の型に近づけることが可能であると言いうるでしょう。しかし、そういった人間が完璧に支配していると思いきっているモノがある日突然、言う事を聞かなくなったらどうなるか―――。そういった局面に対しての「恐怖」といったものも本作品では“ダイアナ”を通じて示そうとしていたのではないかと思います。まあ、そうは言っても今回は純粋な意味での機械の叛逆ではなく、人間による作為も介在していたのではありますが、何れにせよ機械に「感情」を流入することが如何に危険であるかという点については変わりないでしょう。そのような事態が起こるとすることまでは大袈裟であるにしても、現在の「アキバ系」(飽くまでも抽象的な概念を指し示すものであり、特定するものではありません)という語が台頭してきた背景には「理想(=パーフェクト)な人間を追い求める」という幻想と、そのような幻想とはかけ離れた現実面でとの乖離が進んできたことがあるのではないでしょうか。所謂「メイド喫茶」でコスプレ姿を好む人々が存在するのも、そういった現実では満たされない、「理想(=幻想)」を追い求めたが故の現実逃避というわけです(ここである人曰く、“コスプレ”はコンピューターゲーム中での「理想」型のニンゲンに扮し、それを再現したものであるのだと)。果たして機械が人間化しているのか?それとも人間が機械化していっているのか?―――
 要するに生身の人間との意思疎通をはかることが現代、機械が台頭してきたことにより困難になっているのではないか。そして、それが機械化する社会に於ける弊害なのではないかということです。
 
 それともう一つ、興味深いことには、先ほどにも述べたとおり機械(コンピュータ)を代表するものに神話での「ダイアナ」を登場させていたことです。見目容は人間の姿をしながらも、決して人間的な感情を持たない「神」(勿論、西洋的な意味での)。「神」が無機質で機械的な存在であるならば、それと同時に当時に於いては機械(コンピュータ)を「神」的なものとしてある種の畏怖感を抱く傾向があったと言ったら言い過ぎでしょうか。それは「万能」と言う意味でも、「理想」と言う意味でも共通しています(人間の恣意によって如何様にでも解釈できるという意味では「従順」であるとも言い得ます)。作品の途中、イトウがコンピュータを扱う者はまるで宇宙人のようだと話している場面がありますが、そのことも通常人からしてみれば何か違和感があり、一種の「神」的な万能さなり畏怖感なりを感じていたことの表れではないでしょうか。

 
 さて、延々と話をし続け、かなり脱線してしまいましたが、これからは本作品についての表面的な評価を述べていこうと思います。
 まず率直に、何故ダイアナが人を殺せたのかがイマイチよく分かりません。最初のは単に心的なショック死であったとしても、次のはどうやって人を死に至らしめることができたのかは、私が作品を見ている限りはさっぱり分かりません。
 それと、ダイアナがどうやって油絵から出てきてそこら辺を自由に闊歩できているのかも、同じくさっぱり分かりません。絵が消える際に「0~9」までの乱数字が見えたので、若しかしたら現在のような2進法ではなく、もっと高度な10進法用いられていたのかもしれません。だとすれば当時の技術が今よりもかなり高度なものであったということか・・・。
 こういったよく分からない点があったため、取り上げるテーマそのものは良かったのですが、整合性という観点から合格ラインを下回る「B」と致しました。でもやはり、それでもなお語りかける場面については多かったように思いますので「+」は付けておきます。
 
 本作品では何と言うか、内容も去ることながら取り分け「古さ」が目立ちます。標札に書かれている文字が何と無く古めかしいのを始め、コンピュータといってもまだまだ現在のものと比べ非常に大きかったり・・・。でも、そんな中にあっても変わらないものは何か?・・・それが作品中でもあった通り「人間の心」であって欲しいものですね。
 そしてエンディング。明らかに的矢所長は明らかに昭和通りを見下ろした筈なのに何故か、全く違う風景になっています。果たして此処は何処を映したものなのでしょう?う~む・・・。私が思うに(飽くまで推測に過ぎませんが)最後の画像が止まったところで歌舞伎座らしいものが見えるので「築地」辺りを映したものなのではないでしょうか?地方都市では当時、こんなにビル群が立ち並んでいたとも思えませんし・・・。だとすれば今よりも、かなり民家が多かったのだということも窺えます。嘗てのそれよりも、より無機質的な都市化を遂げたとだけは言われなければ良いですね。
 (2006年06月19日21時48分33秒記す)
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[2006/06/19 21:48] 怪奇大作戦 | TB(0) | CM(0)

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