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第二十五話 京都買います 

評価:AA

 怪奇大作戦の中で“最高傑作”と言っても過言ではない作品です。これ単独でビデオとして出されていることも十分に頷ける内容です。
 強いて唯一の難点を述べるとすれば、余りにも今までのシリーズの流れからは外れ過ぎているといったところでしょうか。

 それにしても、ラストのミヤコが仏像へと変身してしまうシーン。確かに今までのリアリティーを追求する立場からすれば、率直に言って現実味がなくぶっ飛び過ぎてしまっていると言えるでしょう。したがって素直に考えるならば、牧のミヤコへの余りの思い入れの強さ故にミヤコが仏像に見えてしまったというのが筋です。ただ、今回に限っては、敢えて元々ミヤコが仏像だったと考えるのもアリではないかと思います。
 と言うのも、元々ミヤコと教授が通謀して京都市民からの「京都を譲渡する」との署名を集めたのは「仏像の元の世界」を取り戻すためでした。教授ならいざ知らず、ミヤコに関しては、若し仏像であるとするならば現代の「京都」は、きっと在りし日のそれと比べ住みにくくなったことに違いありません。刹那的な楽しみを求め、伝統なんてものには目もくれなくなってきた京都市民に対する無念さなるものが滲み出てきた場面でもあるでしょう。

 「京のミヤコを売りませんかー?」
 ―――このとき、ミヤコは何を思っていたのでしょう。。。

 当初、科学的にモノを考える牧にとっては「仏像を愛する」ことなどきっと理解不能であったに違いありません。でも、そんな牧でもミヤコの姿を追い求めている内に、京の街の虜になってしまったというオチでしょう。つまり、ラストの場面、あれだけ仏像に惚れるなんてバカバカしいと思っていた牧でしたが、実は気付いてみたら自分自身も仏像に惚れてしまっていたというわけです。こう考えてみると実に味わいのある作品です
 
 或いは、もっとシリアスに単に牧が庭に置かれている仏像に話しかけているだけだったというパターンも考えられ得ます。ショウレン尼(ミヤコ?)が「スドウミヤコは一生仏像と共に暮らすとお伝えしてくれとのことでした」云々と言っていたことからも、実際スドウミヤコは自殺するなりして既にこの世にはいず、ミヤコが“仏様”としてこの世に姿を現したものと捉えることも可能でしょう。なら、牧がショウレン尼が仏像だと分かった瞬間に逃げ出してしまったその行動も分からなくもないのですが。
 
 ・・・だけど、だとするなら、何故あんなところに仏像が置いてあったんだ???

 
 そして最後に、敢えて京都の美しい部分を映し出さずに、ただただ醜い部分だけを映し貫くエンディング。多少ノイズ的に車や工場の稼働音を入れているところもなかなか好い感じです。
 そのエンディングの中にあって、就中象徴として映し出されていたのが「京都タワー」。今でこそ京都市民のシンボル(?)となっている「京都タワー」ですが(修学旅行に行ったときのタクシーの運ちゃん曰く)、建設当時は市民の大反対があったと聞きます。確かにあんなウルトラマンの発進基地だか何だかみたいなモン、京の街には似合いません。中心街なら何処へ行っても目に入ってしまう位無様ですもの。
 これまた京都市民曰く、京都タワーに上るようなヤツは京都人じゃねえと。
 通天閣や東京タワー,札幌のテレビ塔等がその都市のシンボルとなりつつあるのに対し、京都にあってはそのような高い建物を拵えること自体が似つかわしくない街なのです。

 果たして「京都」にとっての戦後24年間,ひいては60年間は前進してきたと言えるのでしょうか?それとも文化的な意味での後退を齎してきたのでしょうか?
 (2006年08月02日23時09分23秒記す,2007年03月03日13時06分44秒補訂)
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[2006/08/02 23:09] 怪奇大作戦 | TB(0) | CM(0)

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