ラストです。
他にも色々と回ったのですが、最後の2枚は『大覚寺』でのものです。
・・・と言っても、到着時間が遅すぎたため、寺の中を参観することはできませんでした。
なので、ちとお庭の方を・・・
ここでの名物は『名古曾の滝』だそうです。
「なこその滝」・・・か。どこかで聞いたことがあるな・・・
滝の音は 絶えて久しく なりぬれろ・・・
ありゃ?

当日は日が傾いていたこともあり、私のほかはドッグランをしている人一組以外、誰もおりませんでした。
旧跡とはここまで寂しいものなのか・・・
当日はかなりの強風が吹き荒れていました。
上の「なこその滝」へと向かう道の途中、モミジの葉に目潰しを食らわされ、痛い思いをしました;

遂に「名古曾の滝」到着です。
「本当にここが名所か?」を思わせるほどに人気がありません。
猫一匹が名古曾の滝の脇から駆けていったぐらいです。
さて、ここで再度「百人一首」のご登場。
『
滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ』(大納言公任)
滝の音は 滝の流れる音は 絶えて久しく なりぬれど 絶えてから久しく経っちゃったけど 名こそ流れて (「名」・・・この場ではこの滝に纏わる名声のこと)
名声は今日まで流れてきて なほ聞こえけれ やっぱり聞こえているんだなぁ(しみじみ)
。 要するに、実際の滝の水は途絶えてしまったけど、滝に関する名声自体は今でも“流れて”いるんだよ、ということです。
正岡子規とかがいたら「全然、写実的でなくナンセンスだ」と痛烈に批判されそうなところですが(汗;)、いずれにせよ「言葉遊び」が混じっているわけです。
つまり、現代でいれば「洒落」のようなものですが、私自身は今になってはあまり面白いとは感じません(初めて聞いたときは「うまいな~」と思ったりもしましたが)。何故かというと、やはり、その滝自体は、もはやもう存在していないからです。
実際に公任が生きていた時代であれば、それなりに「名古曾の滝」に関する名声も高く、“趣深い”と感じる要因もあったのでしょう。しかし、現代にあっては滝の存在はおろか、「名古曾の滝」に関する名声も殆ど(百人一首等和歌に親しんでいる人以外は)薄れきってしまっています。
和歌が真に評価し得る点といえば、やはり「現在でも如何に共感できるか」、すなわち、「
大昔であっても今であってもどれだけその根となる『実感』が変わらずあることを確認することができるか」、が大きなポイントを占めているだろうと私自身は思います。
「懐古趣味の歌」であれば「懐古趣味の歌」であって十分味わい深いものとなるのですが、奈何せんこの和歌が歌われた時代と現代とでは余りに「懐古」するだけの地盤が違い過ぎてしまっています。
今や“名声すらなくなった”滝の“跡”を見るのは何とも悲しいものです(往時と比べ、現在の「名古曾の滝」を観に来た人の「驚きや感嘆の様子の違い」を思うと)。
ちなみに、「名古曾の滝」の「名古曾」の由来は、
この歌の「名こそ」から始まったとされるようです。公任が歌う前から「名古曾の滝」があって公任が「名こそ」と掛けたのではなく、この歌の「名こそ」から滝の名称の「名古曾」へと派生していったわけです。
が、しかし、それも和歌が流行っていた時代のこと・・・・・・
それにしても「嵯峨」一箇所を訪ねただけで百人一首に詠まれた名所、2箇所を観て回れたのは何とも得した気分です。。
何だかんだでその後、天竜寺に入れないことを確認しつつ、渡月橋の袂でボーっとしたり、ゴマ餡や栗餡が入った八つ橋を土産に買ったりしてました(ゴマ餡は意外と好評)。
そして、市バスで京都駅まで戻り、夜行バス発車の時間まで駅構内を徘徊したり、三省堂で本買ったり、構外の喫茶店コロラドに入ったりしてました。
京都駅を歩き回って感じた事は、食う場所が少ないということですね。少なくとも私のような激貧旅行をしている者にとっては、理想額より一桁違いました。
・・・それと、後々になって気付いたのですが、今回の3日間の旅行で何気に「京都」「大阪」「神戸」の三都を歩き回っていたみたいです。
昨日、今日、明日~♪ 変わりゆく私~♪ (笑
少なくとも関東のどの都市にもない歴史に裏づけされた三都の活気・力強さを感じました。。
【西へ 完】
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