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関係ないじゃん? 

 このGW、地元に帰ってみて多くの旧友に出会った。その中の旧友の一人(高校卒業以来6年ぶりに再会)から聞いた衝撃の言葉。

 旧友「大阪って…何ていうか、差別とか部落とか感じない?」

 その旧友曰く、本人も高校まではそういった「差別」の問題は意識することがなかったものの、名古屋の大学に行ってその土地で「差別」について意識し始めたとのこと。そしてたまに関東に帰る実家の祖父にこの問題について尋ねてみたところ、関東でもこの問題があるという。話は、高校の時の同期の話まで及んだ。

 旧友「あのA君、名前の付け方からして韓国人なんじゃない?」

 そのA君の名前については意識したことはなかったが、一瞬にして今までとは違う雰囲気に包みこまれた。

 石部「そんな差別されるような名前だったら親が付けないんじゃない。」
 
 旧友「だから、親が韓国の人だからあまり使わない漢字を使っているんだよ。」

 私も返す言葉がない。ただ、親が付けた名前のどこに「差別」をする、そして「差別」を許す根拠があるというのだろうか。いつもならここで「そんなこといいじゃん。関係ないじゃん。」と言っていただろう。

 話は逸れるが、先日、機会があって大阪の芦原橋にある人権博物館に行ってきたのを思い出す。そこではボランティアの方々が丁寧に案内をしてくださるのだが、私が熱心に展示物を見ていると、こんなアドバイスをしてもらった。

 ボランティアの方「もしあなたが差別を受けている人から差別のことについて相談を受けたと考えてみて。その時、被差別の人々にとって『関係ない』と言われることこそ最も苦痛なことだ。『関係ない』、つまり無関心を装うこと自体が「差別」の存在自体を忌避し、被差別を受けている方々の理解をその段階で遮絶してしまうからだ。」

 「関係ないじゃん」。実際、私自身、「差別」に対して決して無関心なわけではなく、励ましの意味で用いることがあるかもしれない。しかし、差別を受けている人々からすれば、「差別」を触れてはいけないこととされ、闇に葬り去られることこそ問題なのだ。正直、私自身は、この言葉の意味をどこまで理解できているかの自信はない。ただ、その言葉を聞いて以来、差別や部落の問題については、もっと実態を知るべきだとの立場でいたいと考えている。たとえ仮に「興味本位でそんなことするな。」という人がいたとしても、「無関心でいることで差別を助長することはしたくない。」と言い返すぐらいの姿勢は維持したい、そう考えている。とすれば、「差別」の問題を考える際に、より深掘りし、実態をありのままに把握するために「知る」ことも大切ということになる。

 ただ…

 旧友「石部は大阪のどこが被差別を受けている部落か知っている?」

 石部「うーん…、まあ、それはね…。」

 以前、小学校での人権の授業中、生徒から上と同じ質問が受けた先生が「それを答えることは差別をすることに繋がるから答えることはできません。」と言っていたことを思い出す。そのあと、生徒たちとの議論の中で、若い世代の人たちが誰も「どこが被差別部落か」を知らなくなることで真に「差別」はなくなることになる…そんな結論に収まったような気がする。今思い起こせば、これこそ「無関心」であったのかもしれない。

 本来であれば、上の旧友からの質問に対し、どんな「差別」の実態があるのかを「知って」もらうためにも、自分が聞いた被差別部落について答えるべきだったのかもしれない。ただ、どうしてもその旧友の真意を窺うことができず、答えることはできなかった。あのときの「無関心」と同じだ。本当に自分ができる役割とは何なのか。少し自己嫌悪にも陥るが、少なくとも自分自身は「差別」に対して関心を持ち続ける存在でありたい。
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[2010/05/06 00:24] 徒然なる日記~石部金吉の備忘録Ⅴ編~ | TB(0) | コメント(-)

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